岐阜県岐阜市生まれ岐阜市立伊奈波中学校卒業、岐阜東高等学校商業科を卒業。船員を経て大阪の劇団に所属し、役者を目指す。ある歌手の前座のピンチヒッターとして歌ったことからレコード会社関係者の目に止まり、1968年、高波 明(たかなみ あきら)という芸名で歌手デビュー。しかし思うように売れなかった。 1971年、今度は渥美 健(あつみ けん)という芸名で再デビューしたが、売れなかった。その後はサラリーマンとして生活し、20代半ばで東京都内にスナックを出店。今でいうところの青年実業家のはしりである。 彼が経営する店の常連客にテレビやマスコミの業界関係者が多かったことから、歌の上手さを認められ、1973年、よみうりテレビ制作のオーディション番組『全日本歌謡選手権』に出場。10週勝ち抜きのグランドチャンピオンとなった。 この番組に審査員として出演していた作曲家?平尾昌晃の後押しで、同じく審査員だった作詞家?小説家の山口洋子の命名により芸名を中条きよしに変え、山口が作詞し平尾が作曲した演歌「うそ」で1974年1月、キャニオンレコード(現?ポニーキャニオン)から3度目(中条本人によればこれが正式)のデビュー。150万枚を超えるヒットを記録し、この年の第16回日本レコード大賞の大衆賞など、数多くの音楽賞を受賞。 その後も「うすなさけ」、「理由(わけ)」など、多数のヒット曲を発表。 もともと中条は役者志望で、1981年、ABCテレビ制作の人気時代劇“必殺シリーズ”の『新?必殺仕事人』に、闇の殺し屋集団「仕事人」チームの一人、三味線屋の勇次役でレギュラー出演。 黄色い三味線の糸を巧みに扱い、梃子の原理で悪人の首を締める殺し技と、ほとんど笑顔を見せないクールな風貌。母親役であるおりく(山田五十鈴)を慕い、主役である中村主水(藤田まこと)とは正反対に、家庭を持たず普段は三味線作りと三味線の先生をしながら、夜は女性遊びを日課にしているという粋な仕事人の姿で、女性ファンの人気を獲得した。 これ以降は、俳優としても活躍するようになり、特に映画では極道ものを得意としている。 得意なスポーツはゴルフ。